人形と人間

   一

 人形は人間を象って出来る。人間がいなければ人形は生まれない。だが人

形を作ったので、人間はもっと人間を現したとも云える。どんな人間も人形

より、もっと簡明に人間を示してはいない。人間は人形に、人間の美しさを

煮つめた。人間を最も美しく見たのが人形だと云える。だから美しい人形を

見た場合より、もっと美しく人間を見ることは出来ない。人形は人間への驚

くべき見方の現れである。人形で私達は人間の美しさを教わる。


   二

 あり余るほど人間がいるのに、人間は尚も人形を作る。人間になぞらえて

嘗て作り今も作り更に作る。どうして人形が要るのであろうか。これでこの

世をもっと美しい人間で充たしたいからと云えないであろうか。夢に見る親

しげな人間に毎日会いたいからなのである。人間は心おきなく話し合える人

形を傍に置きたいのだ。人間だけでは荒々し過ぎる。一緒に暮したい人間の

姿を人形に見出しているのだ。だから人間は人形を愛する。愛しないような

人形を作りはしない。それも愛を濃くするために可憐に作る。いつ頃から云

い始めたのか、「雛人形」の言葉を使う。「ひひな形」とは小さい意味であ

る。人形はいつも可愛く小さく拵えられた。だからいやが上にも情を誘う。

人間は憎しみを知らない世界を夢みる。

 事の起こりを探れば、神々の影像を映したのが始めかも知れぬ。だが神さ

えも人の姿を離れてはいない。これは人間に神の面影を見ているのだとも云

えよう。だから慕う姿を人形に作る。人形の中で人間の人間に逢いたいのだ。

人形で人間の不思議さに触れる。

 古くはこれで魔を払い、或は延命を念じて作ったともいう。春の節句はも
 ハライ
と祓の日であった。だが人形への人情はもっと濃く働いていった。あの孝子

丁蘭の古い物語にあるように、亡き母の姿を求めて人形を作ったこともあろ

う。いとし子の面影を偲んで、どんなに多くの母がその雛形を眺めたことか。
    ムクロ
或は亡き骸に添えて、小さな幾つかの像を作ってあの世へ送った。或る民族

ではこれが習わしとさえなった。人形の物語にはしばしば涙が匿れる。

 だがその歴史の賑わいは、悦びからも拡げられた。子供達が面白く遊ぶよ

うにとて、可憐な人形を持たせるのは、凡ての親心ではなかったろうか。子

供達はわけても小さな人形に親しみを覚える。とりわけ女の児にはそうであ
  タダ
る。啻に穏やかな友達を見出すのみではない。自分に姉や母の心をさえ見出

している。抱いたりおぶったりして悦ぶ。人形で子供は和やかな幸福を知る。

だが人形は子供達ばかりの友達ではない。人形と遊ぶ子供達を何より悦ぶの

は親ではないか。親は心をこめて人形を選ぶ。親も子供心に帰ることを悦ぶ。

人形は大人にも友達である。雛祭は子供達ばかりの祭ではない。これでどん

なに一家が和やかにされたことか。人形に人の心は誰も潤う。春に三月の三

日があるのではない。三月の三日で春が春になるのである。ひひな遊びに、

人々はしばし憂世を忘れるのである。『源氏物語』の末摘花にいう。

 「心から、などかかう。憂世を見あつかふらむ。かくこころ苦しきものを

も、見ていたらでとおぼしつつ、例のもろともにひひなあそびし給ふ。」

 人形は人を追い、人は人形を追う。人形のいない土地に人間は住みにくい

のである。


   三
                            キサキ
 様々なものが拵えられた。男や女や、親や子供や、王様やお妃や、武士や

役者や、下男や侍女や、下って牛や馬に至るまで色々と作った。それのみで

はない。独りの姿は淋しいと思ってか、一家族を集めたり、雛段に見るよう

に一と組を揃えたりして飾った。そのために室を拵え、細々と調度まで整え

てやった。進んでは人形を集めて芝居をさせた。西洋の操人形、日本の文楽、

支那の影絵等、それぞれに技を競った。それは既に進みきった立派な芸に達

した。

 材料もあらゆるものに及んだ。木や土や金や布や皮や紙や草や、とりどり
                  ハダツヤ
にそれ等を活かした。これに形を与え、膚艶を与え、色を与え、模様を与え

た。動作は変化を呼び、衣裳は装飾を招いた。彫刻的な立体に刻み、又絵画

的な平面に仕立てた。そうしてしばしば眼や首や手や足を動かせるように仕

組んだ。或る時は着換の着物をも整えてやった。或る時は持ち物も添えてやっ

た。人間が人形に贈る心づかいは並々ではない。

 活きた人形である。悦ぶ顔、厳しい顔、優しい顔、怒る顔、悲しむ顔、凡

ての者がこの舞台に登る。人形は人間の社会の縮図である。


   四

 人形使いになると、夜中人形を独りで置き去りするのは忍びないという。

だから一緒に寝る。支那の影絵使いは、不断は人形の首をはづしておくとい

う。人形の精霊を疑うことが出来ないのである。いつだって人形は活きてい

る。人間よりもまざまざと生きている。活きるものの姿を圧縮して、人形が

出来たとも云える。謂わばここに結晶された人間がいる。人形は人間を煮つ

めた姿である。だから受ける感じは強い。目の当りに魂が迫る。魂のこもっ

ていないような人形など作るわけがない。あの草木にだって霊を感じた昔の

ことである。人形に魂を込めなかった人形造りはない。魂が入れてあってこ

そ始めて人形だと云える。昔のものが際立って美しいのは、魂が活々と入れ

てあるからである。人形を見れば、形ある姿を見るというより、寧ろ見えな

い活きたものを感ずるではないか。だから或る人形は凄くさえある。魂魄が

漂うからである。淡い甘い人形を拵えるようになったのは最近のことに過ぎ

ない。只形の上から作るようになってからの出来ごとである。人形も激しい

商売のために、どんなに醜くせられたことか。


   五

 人間の姿を純化して人形が生まれる。無駄を省いて元素的なものへ帰した

時、人形が出来る。だから人形は必然に単純な省略された形を取る。かかる

純化はものを美しさに誘う。かかる単純さより複雑さを込めたものはない。

人間の精髄が形をとって人形に変わる。だから人形に於いてほど、もっと真

実に人間の面影を見ることは出来ない。丁度美しい絵画に於ける描写より、

もっと美しく自然を見ることが出来ないのと同じである。美しい人形は人間

よりも、もっと人間の美しさを示している。

 だから人形はただ人間を模して作るだけではいけない。よい作り手はそん

な愚かさを犯しはしない。只真似るなら、平凡に人間を写したということに

落ちて了う。人形は写実的なほど美しさから遠い。人形は人間に止まっては

いけない。人形は人間よりも、もっと人間らしさを現さねばならない。人形

に於いてほど、人間を美しく見ることが出来ぬまでに創らねばならない。人

間が原因であるかも知れぬが、寧ろ人形にこそ人間の原型が見られるという

方が正しい。だから美しい人形を見る時、こう云ってよい。どんな人間を見

ても、人形ほどに人間らしくは見えないのだと。又どんな人間も人形ほどに

美しい姿にはなれないのだと。それ故進んで又こうも云いたい。人間の動作

や表情が美しい時、それは人形のように美しいのだと。人間を最も美しく見

た形が人形なのだと。


   六

 文楽はもうあぶない。見ていると人形使いは、なにがな人間の動作を真似

しようとしている。だがそんな見識のないことではいけない。人形が人間を

語るべきで、人間に左右されるような人形ではいけない。人間があって人形

の動作があるというより、人形があって人間の動作があるのだという方が正

しい。人間におもねる人形は醜い。人形こそ人間の原型であってよいのであ

る。人形の動作以上に、至純な動作をすることは人間には出来ない。

 見ようによっては人形の動作は不自由とも云える。簡単な直線的な動作よ

り現し難い。だがそれは動作の自由を欠くのではなくして、元素的な動作に

帰っている意味がある。人形の単純な動作に於いてほど、人間の複雑な動作

がくっきりと示されることはない。本格的なものより有たないために、一見

不自由に見えるのである。不思議にも人間の感じは、人形に於いて最も鮮や

かに表現される。

 だからどんな人間の芝居も、実は人形芝居より美しくはあり得ない。人間

の所作はなまであるが、人形の所作は型にまで高まる。その芸は模様に近い。

私はそれを工芸的美しさだと呼ぶ。若し役者が美しく演じたら、彼の所作は

人形の如く見えるであろう。なぜなら人間は最も無駄を省いた所作を、人形

以上に現すことが出来ないからである。人形芝居は人間に出来ないことまで

鮮やかに出来る。

 だから逆に人間こそ人形の動作を習ってよい。それによって一段と美しく

人間の所作を示すことが出来よう。人形にこそ人間の則るべき姿がある。例

を挙げるとしよう。藤娘の踊りはどうしたって初期の大津絵以上に美しくは

あり得ない。踊を大津絵から学んだので、大津絵が踊を真似たのではない。

美しく踊ろうとするなら、大津絵の藤娘の如く踊らねばならない。同じよう

に人形の踊より美しい踊は考えられない。人形は美しさの型だと云える。文

楽の芸は本来は驚くべき技なのである。如何なる歌舞伎よりも、もっと格が

高い。同じようにどんな支那の劇も、正しく演じられる影戯より、更に迫力

を有つことはむづかしい。

 人形の美しさが忘れられる時は、人間の美しさが忘れられた時だと云える。


   七

 人形は人間を簡約する。簡約はただの省略や減少ではなくして、本質的な

ものの凝結である。僅かな表現に凡ての内容を托すのである。謂わば動を含

む静とも云える。黙する人形ほど、働きを示す人形はない。だから簡約は活

活とした印象を与える。これを一種の誇張と呼んでもよい。簡単な型に内容

を強めて表示する時、誇張が生まれる。誇張と単純化とは一体である。若し

誇張という言葉が誤解され易くば、ものの「強化」と呼んでもよい。人形は

強化された人間である。表現の美しさはいつもかかる強調を求める。かかる

誇張のない所に美しい人形はあり得ない。

 誇張は正しい意味でグロテスクである。(近時この言葉が日本の俗語に入

り、誤った意味に用いられるに至ったことは、返すがえすも残念である。な

ぜなら美の本質を説くのに、こんな貴重な言葉は少ないからである。)グロ

テスクは強調の美とも云える。美が深さや根強さを伴う時、それは必然にグ

ロテスクの調を帯びる。甘さや弱さはここに近寄ることが出来ない。だから

真に美しいものはどこかにグロテスクの要素を欠かない。美しい人形とは、

只美しい人間をそのまま写したものではない。その美しさは、グロテスクに

深まらなければならない。この表現に達せずして人間の美しさを鮮やかに示

すことは出来ない。人形からまざまざと迫るものを感じるのは、その美しさ

がグロテスクの域に深まっているからである。グロテスクは美の強化である。

それは強いて企てる誇大ではなくして、美しさが招く必然な迫力である。若

しこれが単に奇怪なもの気味の悪いものに陥るなら、それは寧ろ変態な現象

に過ぎない。真に健康なものでなくば、決して美しいグロテスクには成れな

い。グロテスクは深さの姿だとも云える。グロテスクの美を有たない国民は

迫力ある美を有たない。弱い時代に又甘い人間に決して美しい人形は産めな

い。近頃のように甘さに美を追うのは、美を見失った証左である。人形の美

しさはグロテスクの美しさである。

 長い間の美の目標として吾々の民族が守り続けてきた「渋さ」の美は、グ

ロテスクの美だとも云える。渋さとは圧縮され凝結され簡約された美しさを

いう。渋さは含みであってあらわな様ではない。渋さは強化された暗示とも

云える。凡ての美しい人形はこの渋さを欠かない。渋さがあってこそ人形の

美しさが深まる。渋さを失う時、美しさも亦失われて了う。

 人形は人間の姿よりずっと渋い。だから一段と深く人間の姿を現せるので

ある。人形は人間よりもっと活きて見える。美しい人形には魂魄が漂う。何

か見えないものが強く迫る。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』90号 昭和13年9月】
 (出典:新装・柳宗悦選集第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)

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